映画:ザビートルズEIGHT DAYS A WEEK ‐The Touring Years

「ザビートルズEIGHT DAYS A WEEK ‐The Touring Years」のネタバレあらすじと結末

ザ・ビートルズ EIGHT DAYS A WEEK ‐The Touring Yearsの紹介:2016年のイギリス・アメリカ合作によるビートルズのドキュメンタリー。1962年から1966年のライブツアーの映像やインタビューを通して、当時のバンドが抱えていた苦悩や作曲秘話を明らかにしていく。アカデミー賞受賞経験者のロン・ハワードが監督を務め、第69回エミー賞ではノンフィクション部門で音響賞、編集賞を受賞した。

あらすじ動画

ザビートルズEIGHT DAYS A WEEK ‐The Touring Yearsの主な出演者

語り(ザ・ビートルズ、エルヴィス・コステロ、リチャード・レスター、ラリー・ケイン)

ザビートルズEIGHT DAYS A WEEK ‐The Touring Yearsのネタバレあらすじ

簡単なあらすじ

【起】- ザビートルズEIGHT DAYS A WEEK ‐The Touring Yearsのあらすじ1

ザビートルズEIGHT DAYS A WEEK ‐The Touring Yearsのシーン1 1962年のデビュー発表以来、今日まで世界中を熱狂させてきた伝説のバンド、ビートルズ。1962年から1966年までバンドがどのような日々を過ごしてきたのか、ビートルズのインタビューやライブ映像、ビートルズを支えた人々や当時彼らの音楽に熱狂した著名人の証言によってひもといていきます。

ドイツのハンブルクでの下積みを経て、ジョン・レノン、ポール・マッカートニー、ジョージ・ハリスン、リンゴ・スターは「ラヴ・ミー・ドゥ」でデビュー。初のアルバム「プリーズ・プリーズ・ミー 」は1963年3月にリリースされ、30週連続で全英1位を獲得しました。その後、1963年11月リリースの「ウィズ・ザ・ビートルズ」もヒットを飛ばし、21週連続で全英1位を記録しました。ビートルズの楽曲は全米でも1位となり、ビートルズ人気は世界中で沸き起こりました。

ビートルズが絶大な人気を得たのは楽曲の魅力だけでなく、彼ら自身のやんちゃな性格にも理由がありました。ビートルズはインタビューを受けるとジョークで返し、そのやりとりをファンは楽しんでいました。特に若い女性たちからの人気は絶大で、4人の姿を見て金切り声をあげ、感動で倒れてしまう人も珍しくありませんでした。ビートルズは自分たちの演奏を押し消すほどのファンの熱狂を各地で目撃することとなりました。

そんな彼らのスター性をいち早く見出したのは、マネージャーのブライアン・エプスタインでした。エプスタインはリヴァプール出身の若者たちにバンドの方向性を提示し、ビートルズもまた紳士的で真面目なエプスタインに信頼を寄せていました。

【承】- ザビートルズEIGHT DAYS A WEEK ‐The Touring Yearsのあらすじ2

ザビートルズEIGHT DAYS A WEEK ‐The Touring Yearsのシーン2 ビートルズはその後も曲を発表し続け、1964年には米国チャートトップ5独占という史上初の偉業を達成すしました。「なぜかどの曲も愛された」と、リンゴ・スターは当時の心境をそう明かし、世界ツアーで各地から熱烈な歓迎を受けたことを振り返りました。

そんなある日、アメリカのテレビ局のディレクター、ラリー・ケインがビートルズのツアーに同行取材することとなりました。ラリーは元々政治経済の報道を多く担当しており、局からビートルズの取材を指示されたときは困惑したといいます。ベトナム戦争の激化、大統領の暗殺、モハメド・アリの動向…ラリーは報道すべきニュースが他に数多くあると考えていましたが、ビートルズに熱狂する若者たちが起こす騒動を目の当たりにし、ビートルズの持つ影響力の大きさを実感しました。

その後、ビートルズはアメリカ南部の都市ジャクソンビルでのライブを迎えました。当時は公民権運動が激化していた時期で、差別意識の強い南部ではいまだに有色人種の隔離政策がとられていました。その現状を知ったビートルズは人種差別的な隔離政策に反対の意思を表明し、「隔離するなら行かない」と固い決意を示しました。ビートルズの完全平等を求める姿は感動を呼び、ライブ会場からは人種隔離が取り払われることとなりました。当日は白人だけでなく黒人も会場でライブを楽しみ、その後他のライブでも会場内の人種隔離は撤廃されました。ビートルズはアメリカに残る保守的な風土に、確かな変化を与えたのでした。

そんな中、ツアーに同行するラリーを悲劇が襲いました。最愛の母親が急死したのです。ラリーは当時ビートルズのメンバー全員がラリーの気持ちに寄り添ってくれたことを思い出しました。ラリーはビートルズが他人の気持ちにとても敏感だったと回想しました。

その後、プロデューサーのジョージ・マーティンの下、ビートルズはレコーディング、映画出演やコメディ俳優との共演をこなしていきました。そして1965年、「ハード・デイズ・ナイト」に続く映画第二作目「ヘルプ!」の撮影がバハマで始まりました。ビートルズはドラッグでラリった状態になりながら撮影に臨みました。

【転】- ザビートルズEIGHT DAYS A WEEK ‐The Touring Yearsのあらすじ3

ザビートルズEIGHT DAYS A WEEK ‐The Touring Yearsのシーン3 この頃から、メディアのビートルズへの風当たりは徐々に強くなり、ジョンは特に不安感を覚えていました。そんな中、ジョンは新たな楽曲「ヘルプ!」を書き下ろしました。

僕が今よりずっと若かった頃は
誰かの助けなんて必要じゃなかった
あの日々は去り 自信さえ失った
だから考えを変えて 心の扉を開いた
できれば助けて 落ち込んでいるんだ
そばにいてくれたら すごくうれしい
立ち直れるよう手を貸して
どうかお願いだから 僕を助けて

映画監督のリチャード・レスターは、ジョンの自伝のような歌詞に驚かさました。ジョン自身、自分の本心が歌にこめられていることを自覚していました。

1965年8月、ビートルズは「ヘルプ!」をリリース、全英で通算9週1位を記録しました。ビートルズのレコードは大ヒットしていましたが、彼ら自身の懐はさほど潤いませんでした。レコードの売り上げに応じた収入が得られるような契約を結んでいなかったためでした。そのため、彼らが収入を得るにはライブをこなすのが一番良い方法でした。

絶大な人気を誇るビートルズのライブを開催するには、スタジアムレベルの会場が必要とされました。ビートルズは各地でスタジアムライブを行いますが、ニューヨークのシェイ・スタジアムでライブを開催したとき、彼らのストレスは爆発しました。6万人近くの観客を収容する巨大スタジアムに適した音響機材は当時存在せず、ビートルズの奏でる音はファンの歓声に打ち消されてしまいました。ライブの後、ジョージが「もうウンザリだ」とツアーの出来に不満を露わにすると、他のメンバーもジョージに同調、ビートルズはレコーディングに注力するようになっていきました。

1965年12月リリースの「ラバー・ソウル」は8週連続で1位を獲得、その革新的な音楽は多くのファンを困惑させました。ミュージシャン、エルヴィス・コステロもそんな一人でした。しかし、聴いていくうちに病みつきになり、「人々を“新たな地平”へ導く優れた音楽家の作品だ」と評価するようになったといいます。

その後、MBE勲章を与えられたビートルズは数年ぶりの休暇をとりました。他のメンバーがゆっくり過ごす中、ジョージはインド音楽を研究し、ジョンとポールに負けない曲作りを目指していました。休暇が明けると、ビートルズはインド音楽からの影響を色濃く受けたアルバム「リボルバー」を1966年に発表、8週連続で1位を獲得しました。「シー・ラヴズ・ユー」ばかり歌ってるわけにはいかない…自分たちが年を重ねて大人になったことを、ビートルズはこのアルバムで実感しました。

【結】- ザビートルズEIGHT DAYS A WEEK ‐The Touring Yearsのあらすじ4

ザビートルズEIGHT DAYS A WEEK ‐The Touring Yearsのシーン2 この当時も、メディアはビートルズに批判的な姿勢でした。あるとき、ビートルズは記者から「なぜそんなに偉そうなの?」という質問を受けました。ポールはその敵対的な質問に冷静に対応しました。「悪質な質問にいい返事はできない。それは偉そうだからではなくて、当然の反応だ」…ポールがそう語ると、記者会見場からは自然と拍手が巻き起こりました。

その後すぐ、ビートルズは初来日を果たしますが、そこでもビートルズへの逆風が吹いていました。武道の聖地でロックコンサートをすることへの反感や、右翼による西欧物質主義への反対運動など、日本人は手放しにビートルズの来日を喜んでいたわけではありませんでした。そこでもビートルズはメディアへの丁寧な対応を心がけ、日本武道館でのライブを成功させるのでした。

しかし、その後ビートルズは大きな問題に直面しました。それは、ジョンの「ビートルズはキリストより有名」と雑誌で発言したことに始まりました。この発言はイギリスの雑誌インタビューでのもので、国内では大した注目を集めませんでした。ところが、この発言がアメリカに伝わると、アメリカ人はビートルズの傲慢さに激怒、ただちにビートルズのレコードやグッズを破壊する過激な人々が現れました。ジョンは謝罪の場を設け、キリストを冒涜する意図はなく、イギリスの若者から人気が高いことを言いたかっただけ、と釈明しますが、事態の解決には繋がりませんでした。

アメリカのライブのチケットは売れず、ライブ会場には爆破予告が届くときもあり、ビートルズはアメリカでは常に厳戒態勢の中でライブを行いました。それでもライブを続けたビートルズでしたが、これ以上のライブ活動に限界を感じていました。「もう嫌だ、ライブはもうやりたくない」…ジョージがそう切り出すと、他のメンバーもその意見に同調したといいます。

それから3ヶ月後、ビートルズの姿はレコーディングスタジオにありました。ライブで自分たちを表現することに限界を感じていた4人は、レコーディングでその才能を再び開花させました。こうして完成した「サージェント・ペパーズ」は全英全米で1位を獲得、全世界で3年間チャート入りを果たしました。2012年には、ローリング・ストーン誌でオールタイム・ベストアルバム1位の評価を受けました。

ビートルズはスタジオでの音楽活動に移行し、その後4年間で5枚のアルバムを制作しました。その後、ロンドンのアップル社屋上でもう一度だけライブを行いました。歌ったのは、「ドント・レット・ミー・ダウン」、「アイヴ・ガッタ・フィーリング」。突然のライブに驚いて屋上を見上げる人たちもいれば、近くの屋上に昇ってライブを見物する人たちもいました。アップル社の前には大きな人だかりができ、皆静かにビートルズの演奏に耳を傾けていました。

みんなの感想

ライターの感想

楽曲の裏に隠されたエピソードや、スターとしての苦労、そして若者らしいやんちゃなふるまいなど、当時のビートルズの様子がよく伝わってきました。また、当時がとても難しい社会情勢だったことや、アメリカのファンの怒りなど、楽曲を聴いているだけではわからない様々な背景もきっちり描かれており、非常に見応えのあるドキュメンタリーだと思いました。

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